津波から生還した経験を自分の言葉で語ることで、犠牲者を供養し、次代の生命を守る。 津波から生還した経験を自分の言葉で語ることで、犠牲者を供養し、次代の生命を守る。

津波に飲み込まれながら奇跡的に生還。
語り部として県内外で伝承活動に尽力。

相馬市北部の沿岸に広がる原釜尾浜海水浴場は、夏には多くの家族連れでにぎわう場所です。その青い海を見渡す小高い丘にあるのが相馬市伝承鎮魂祈念館。「鎮魂」という言葉があるように、相馬市は東日本大震災発生時、9メートルもの津波に襲われ、原釜・尾浜地区、磯部地区を中心に458人もの命が奪われました。五十嵐ひで子さんは、この地域で黒い津波に飲み込まれ、首から上以外、全身が土砂に埋もれながら、奇跡的に一命を取り留めた経験を持ちます。相馬市の「震災語り部」としてこの祈念館をはじめとする各地で活動を行い、政府や福島県主催の式典でも追悼の言葉を述べる等、震災の記憶の伝承に尽力しています。2023年7月には復興大臣から感謝状が贈られました。「自慢しているですって?はい。自慢なんです」と五十嵐さんは笑います。

心を込めて、時に笑いを織り交ぜながら、ご自身の体験を語る五十嵐さん。

心を込めて、時に笑いを織り交ぜながら、ご自身の体験を語る
五十嵐さん。

出てこなかった『逃げっぺ』の一言。
現在もぬぐえない悔しさ。

今でこそ、笑顔で語る五十嵐さんですが、震災からしばらくの間は、その記憶を語るなんて考えられなかったそうです。「語ろうとすると涙が出てきました。なんで『逃げっぺ』の一言が出なかったのか。それが悔しくて。」五十嵐さんは、震災前、原釜尾浜海水浴場のそばで民宿を営んでいました。あの日14時46分には地鳴り、海鳴りとともに大きな揺れに襲われましたが、宿泊の予約がたくさんあり、17時頃にはやってくるお客様の晩御飯の仕込みで頭がいっぱいだったそうです。「津波の前は波が引くと聞いていましたが、引いていませんでした。2日前に宮城県で震度5弱の地震があっても相馬には大きな影響はありませんでした。逃げることより、お客様が来るのにどうしよう。そんなことばかり考えていました。」その後、岩手県や宮城県に大津波が来たことを知らされても逃げず、消防団に声をかけられ、ようやく動き出します。ですが、夫と身体の不自由な叔父を連れて家から外に出た時には、すでに水が道路に流れ出していました。

相馬市伝承鎮魂祈念館の館内。震災前の相馬市の原風景と震災後の被害状況等を紹介。

相馬市伝承鎮魂祈念館の館内。
震災前の相馬市の原風景と震災後の被害状況等を紹介。

生還したという十字架を、
語ることで受け止め、次代へつなぐ。

発見された時、五十嵐さんは、衣服もなく、がれきから首だけが出ている状態でした。「寒かった。こんな無様な姿で、ここで死ぬの。そう思いました。」あと少し発見が遅かったら低体温症で亡くなっていたそうです。その後、数カ月は頭の中が真っ白で、現実と向き合えない日々が続きます。「娘から『なぜ逃げなかったの?お母さんなら逃げたと思ったよ』と言われて。私が先に逃げていたら救えた生命があったんじゃないか。それが悔しくて悔しくて。今も自分を責めています。」それでも新聞社の取材がきっかけで、少しずつ気持ちを整理し、現在の活動につながっています。「聴講された方から『神様があなたを必要として助けてくれたのよ』と言われて。語ることは供養にもなると今は思っています。」生還したという自身の十字架を、語ることで受け止め、次代の生命を守る力に変えている五十嵐さん。「私は直接自分の言葉で伝えたい。呼んでくださればどこにでも行きます。海外からのオファーもお待ちしています」と、本心を冗談交じりに語ります。俳優のように時に凛々しく、時に楽しく振る舞う五十嵐さんを、きっと亡くなった方々も見守り、応援しているに違いありません。

館内には相馬市の震災犠牲者の御芳名が記されている。当日も花が添えられていた。

館内には相馬市の震災犠牲者の御芳名が記されている。
当日も花が添えられていた。

相馬市伝承鎮魂祈念館

〒976-0021
福島県相馬市原釜字大津270
TEL:0244-32-1366

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